教会の初めにおいて仁愛が根本的にあり、その時、誰でも他の者を兄弟のように愛し、また自分のためではなく、隣人のため、共同体のため、主の王国のため、また凡てのものの上に主のため善により働きかけられる。しかし時の進行によって仁愛が冷たくなることと何もなく為されることを始め、その後、相互の憎しみへ行く。誰でも法律の下の社会的な仲間関係の中に居るので、また憎しみが外なる拘束で閉じ込められるので、例え外なる形において憎しみが見えなくても、それでもなお、内部の心に抱かれる。外なる枷は自己愛と世俗愛からもたらされる。そしてそれらは名誉への愛と高位への愛、利得への愛と同じくそこからの権力への愛、そのように名声への愛である。それらの愛の下に隣人への憎しみを隠す。凡ての者達を支配することを欲するような愛、また他の者の凡ての物を所有することを欲するような愛が非難される時、心にその隣人に対する軽蔑を隠し、復讐をたぎらせ、その破滅を喜ぶ。それどころか、残酷をあえて出来る範囲で行う。最終的に教会の仁愛はその終結の時、そのようなものに変わり、またその時、もはや何も信仰がないことが言われる。なぜなら、仁愛のない信仰は信仰でないからである。(天界の秘義2910)